書名読み | たびにっき いち・に |
所蔵 | 弘前市立弘前図書館伊東家文書 |
著編者 | 伊東広之進祐之(梅軒) |
写刊年次 | (壱・弐とも)弘化三年(一八四六) |
寸法・丁数 | (壱)縦七・〇×一五・二糎 三○丁 (弐)縦九・二×二〇・七糎 二一丁 |
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解説
「旅日記」壱・弐は、弘化二年(一八四五)八月、大坂から淡路島に渡り、四国~九州~中国筋を経由して、再び大坂に戻って来るまでの日記である。記述は同三年三月九日姫路・曽根・高砂の部分で切れている。梅軒の自筆本である。「壱」は弘化二年八月九日から九月廿六日まで、「弐」は九月二十六日から翌三年三月九日までの記述であるが、記載がない日もある。「江戸・大坂表勤学之覚」には名前があげられていない、久留米(現福岡県久留米市)水天宮神職の真木和泉守保臣(まきいずみのかみやすおみ)(一八一三~六四)、熊本藩士の宮部鼎蔵(みやべていぞう)(一八二〇~六四)と横井平四郎(小楠)(よこいへいしろう)(しょうなん)(一八〇九~六九)の名前が見えている。
梅軒が西国行きを目指した目的は、長崎に行き唐船・オランダ船を見ることであった(弘化二年九月二十二日の記事)。しかし、唐船は朝早く出帆して見ることが出来ず(同年十月五日の記事)、オランダ船もはっきりはしないが、見ることが出来なかったようである。
梅軒は宿屋に泊まることもあったが、大抵は自分が逢った儒学者の紹介状を持参して次の目的地に行っており、漢詩を詠み、書に親しみ、酒を酌み交わし、時勢を論じて交友を結んだことが見て取れる。そこには、このような遊歴を可能にした儒学者間の全国的「知のネットワーク」の存在が見て取れる。嘉永五年(一八五二)閏二月二十九日に吉田松陰(よしだしょういん)が宮部鼎蔵と共に弘前の梅軒を尋ねる事が出来たのも、梅軒と鼎蔵に面識があった事の他に、「知のネットワーク」を利用した旅が可能であったためであろう。