中臣祓

書名読みなかとみのはらえ
所蔵高照神社所蔵、高岡の森弘前藩歴史館寄託
著編者津軽信政
写刊年次元禄十一年(一六九八)十一月十一日
寸法縦一六・〇×横八五・〇糎
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解説

 『中臣祓』は、万民の罪穢(ざいえ)を祓い除き、清浄にするための祝詞(のりと)。本資料は、中臣祓の祝詞を元禄十一年に弘前藩四代藩主の津軽信政が筆写したもの。
 神道儀式としての中臣祓は、毎年六月・十二月に朝廷で行われていた公儀の大祓(おおはらえ)を中臣氏が祭事をつかさどっていたことから、大祓の行事および大祓の詞を中臣祓と称するようになった。神道の最重要行事の一つとして神聖視されるとともに、仏教や陰陽道の影響を受けて、神秘化されるようになった。祝詞の大意は、天孫降臨(てんそんこうりん)の古(いにしえ)からいい起こし、この祝詞を唱えことによって一切の罪穢が神々によって祓い清められる、というもの。
 筆者である津軽信政は、吉川神道の創始者である吉川惟足(よしかわこれたり一六一六~一六九四)と吉川従長に師事し、元禄八年(一六九五)に「高照霊社」の霊社号、宝永七年(一七一〇)には四重奥秘(しじゅうおうひ)「神籬磐境之大事(ひもろぎいわさかのだいじ)」を授けられた。神道上の地位は、保科正之(ほしなまさゆき一六一一~一六七二)に次いで二人目の四重奥秘許受者であった。信政の死後、遺言によって葬地と定められていた岩木山麓の高岡に遺体が埋葬された。息子である五代藩主の津軽信寿(のぶひさ)が廟所・社殿を整え、江戸時代には信政の霊社号にちなんで「高照霊社」または「高岡様」と称された。

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