蚕飼養法記

書名読みこがいようほうき
所蔵弘前市立博物館
編著者野本道玄(本は元、玄は元とも表記される)
外題ナシ 現表紙・裏表紙は後世(現代)の補填で題簽もナシ
内題蚕飼養法記
残欠状況表紙・裏表紙欠 後欠二丁(本文最後及び結語部分)
丁数二五丁
写刊年次元禄十五年(一七〇二)孟春日
寸法縦二二・三×横一六・〇糎
備考自序に「野」黒文字印と「穏田」黒丸印あり。「穏田」は道玄の雅号。
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解説

 本書は、弘前藩の茶道役として召し抱えられた野本道玄が、藩の養蚕政策に関わって編述し、元禄十五年、京都において板刻・刊行されたものである。本書末尾は欠損しているが、国立国会図書館蔵『蚕飼養法記』など、他に所蔵されている同書末尾には「元禄十五壬午歳孟春日 弘前織会所家蔵」と記されている。その評価は高く、養蚕書としては最古のものであり、江戸中期における日本の蚕業技術を最初に集大成した注目すべき文献である、とされている。
 内容は、蚕糸の諸過程における技術の経験的な蓄積を「口伝三七ヶ条」にまとめたもので、養蚕・製糸・蚕種・栽桑技術の全てにわたって述べられている。特に注目すべき技術として、焙炉(ほいろ)を用いた燥殺乾繭法(そうさつかんけんほう)や手挽製糸法が本書に初めて記載されている。ただし、北東北では自生しない本州中部以西の植物の記述が多いことから、本書に記された蚕糸技術の多くは、当時の養蚕中心地であった近江や機内で発展したものであったと考えられる。
 本書の刊行は元禄十五年であるが、この年に本書が直ちに領内に頒布されることはなかったようである。弘前市立弘前図書館蔵「弘前藩庁日記」のうちの「国日記」元禄十七年(宝永元年・一七〇四)二月二十五日条によれば、『蚕飼養法記』は藩命を受けた野本道玄が京都で刊行し、元禄十五年に千部余りを弘前の織会所に送っている。しかしながら「領内不作困窮」の状況であったことから、同年に頒布されることはなく、この元禄十七年になってようやく希望者に銭六〇文で頒布されたことが記されている。
 著者の野本道玄は、木下長嘯子(ちょうしょうし)(江戸初期の歌人で小浜城主。豊臣秀吉の妻・北の政所の兄家定の子。)の第十四子とされる。のちに野本藤兵衛の養子となり、京都に住して茶道に志し、弌樹庵(いちじゅあん)三世道玄に師事してこれを継ぎ、四世道玄を名乗った。茶道家として一家をなし、茶道に関する著書も「茶道一源」「茶教一源」など多数ある。明暦元年(一六五五)の生まれとされ、正徳四年(一七一四)十月五日に弘前で没している。墓は弘前の本行寺(現弘前市新寺町、日蓮宗)にあり、墓碑表面に「妙法 立行院道源日首居士」の戒名、裏面に「山州洛住人俗名弌樹庵四世 野本道玄」と刻まれている。