津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳

書名読みつがるりょうおおみちこみちいそべみちならびにふなじのちょう
所蔵弘前市立弘前図書館八木橋文庫
著編者不詳(弘前藩の担当者・書役の者)
写刊年次慶安二年(一六四九)二月
寸法縦三三・〇×二四・〇糎
丁数六七丁
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解説

 江戸幕府は正保元年(一六四四)、全国の各大名に「国絵図」「城絵図」の調進を命じた。これらは一般に正保国絵図、正保城絵図と呼ばれている。正保国絵図は幕府の紅葉山文庫に保存されていたが、明治六年(一八七三)の皇居の火災により焼失した。現在国立歴史博物館で複製を一五舗持っているほか、提出した大名家に控え図や写しが残されている場合がある。また正保城絵図は国立公文書館に六三舗(重要文化財)が残っている。
 弘前藩の場合であるが、国絵図の方は正保二年(一六四五)十二月二十八日に幕府に提出をした。その控えを貞享二年(一六八五)三月二十六日に書き写したもの(青森県立郷土館蔵・県重宝)が残っている。城絵図の方は国立公文書館の六三舗にあり、この下書きと見られるものを弘前市立博物館で所蔵している。
 さて、この資料と正保国絵図・城絵図との関係であるが、国絵図の解説書に当たるようである。
 主要街道である大道筋とそれに準ずる脇道、その他の小道、そして磯辺道と船路之範の概要を記したものになっている。大道筋として取り上げられているのは、①秋田領の八森から西海岸を北上し、鰺ヶ沢から弘前に入り、今度は弘前から青森へ北上し、青森から陸奥湾岸を盛岡藩領へ抜けるルートと、②弘前から南下し、碇ヶ関から秋田領の白沢へ出るルートの二本である。弘前藩領の主要道として他藩、つまり秋田藩領と盛岡藩領に通じる道が大道筋として認識されており、この記載の仕方は幕府の指示によったものと思われる。そこには、幕府による全国の主要道の把握する意図があったと言えよう。大道筋、脇道と小道についての記述の仕方は共通で、宿継ぎの村々間の距離、途中にある川の広さ(幅)、深さ、架橋の有無、坂の上り・下り距離などが詳細に記されている。