外浜奇勝

書名読みそとがはまきしょう
所蔵青森県立郷土館
著者菅江真澄(すがえ ますみ)
成立年江戸時代/一八世紀末
寸法縦一九・二×横一三・八糎
丁数一〇四丁
図絵七九図
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解説

 著者菅江真澄(以下、「真澄」と記す。)は、生涯のほとんどを旅に暮らし、数多くの紀行・日記を残した。本名は白井秀雄、宝暦四年(一七五四)三河国(現在の愛知県)に生まれ、文政十二年(一八二九)出羽国(現在の秋田県)角館で逝去した。天明三年(一七八三)に真澄は故郷を出立、三〇歳のときであったとされる。行路は現在の長野県、新潟県を経て東北地方へ入り、さらに津軽海峡を渡り北海道にまで至った。滞在した先々では、地元の医学者や歌学の仲間などいわば知識層との交遊に時を過ごす一方、船頭や馬方、宿の家人らから情のある対応を受けた。土地の景観・木石・旧跡・神祠・習俗などに関心を寄せ、山中深く分け入って実地踏査にも赴いた。そして旅中見聞した諸事は日付を入れた日記形式の文にし、ときには写実的な絵図を描いた。それらは江戸時代後期の北日本の景観や庶民の暮らしぶりなどを知ることができる貴重な記録であり博物誌でもあるといえよう。
 津軽領内に真澄は三度訪れ合わせて九年ほど在住しており、滞在期間の長さでは終焉の地秋田領に次ぐ。「外浜奇勝」は真澄が津軽領内に滞在したときに書いた日記のうち寛政八年(一七九六)六月から七月までと、同十年(一七九八)三月から七月までの文・絵図を綴じて一冊としたものである。真澄がたどった行程ごとに仕切り紙が入っており、寛政八年六月一日に弘前を出発し、津軽半島の日本海側突端にある小泊を目指し、その後は南下して鰺ヶ沢に到着するところまで、次に日本海沿いの秋田領に近い深浦から七月十六日に出発し同月二十三日に藩境の関所がある大間越のところまで、最後は寛政十年三月半ば過ぎに南部領に近い平内を出発し弘前に滞在の後、五月十二日に薬草探索のため岩木川沿いに上流を目指し、岩木山麓の南から西側の調査、その後は日本海岸沿いに南下して、ところどころの川の上流に分け入り深浦に着き、七月九日再び北上し鰺ヶ沢の赤石川上流を目指そうとするところまでとなっている。