青森町絵図

書名読みあおもりまちえず
所蔵弘前市立博物館
作成者未詳
作成年次享元年~元禄初年(一六八四~八八)頃
年代享和元年(一八〇一)~大正八年(一九一九)
寸法縦一〇七・1✕横二六六・五糎
備考紙本着色
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解説

 正保元年(一六四四)に幕府の命で諸藩が作成した正保国絵図である津軽領の「陸奥国津軽郡之絵図」(貞享二年<一六八五>の写し、青森県立郷土館蔵)には、青森はまだ「青森村」と記されている。青森はその後、藩の政策によって領内最大の湊町へと変遷していくことになるが、本絵図は寛文十一年(一六七一)に青森御仮屋が建設されるなどして青森町の支配機構が整備され、現在の青森街区の基本となった町割りが形成された寛文後期(一六六九~七二)から間もない貞享元年(一六八四)~元禄元年(一六八八)の間に作成された町絵図である。現在の青森街区との比較ができる近世前期の代表的な絵図として知られる。絵図の作成年代は、絵図中の人名と「国日記」及び貞享四年(一六八七)の検地帳に記載された人名との照合、また三ヶ所の「湊口番所」の記載などから、この時期に比定されている。
 本絵図中には各町が取り立てられた年代が記されている。これによれば、青森開港当初、青森町は善知鳥宮を西端として一般の商家・酒造業者を集めた本町(のちの大町)、船問屋の浜町、米問屋の米町が町割りされ、このほか漁師町の善知鳥町(安方町)と蜆貝町も既に存在していた。その後正保元年(一六四四)に越前町、万治元年(一六五八)に大工町、寛文四年(一六六四)に町の東側に塩町・博労町・莨町・堤町・川端町が形成され、寛文十一年には新町・寺町・鍜冶町・柳町が成立している。前述したように、寛文十一年は青森御仮屋が建設されており(現青森県庁所在地)、現在に続く青森の原型を見ることができる。

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